みぎのほっぺに冬の夜

Träume sind Schäume.

未知の不思議/裏切りの街


裏切りの街。

 


まだ四半世紀も生きていない、「人生経験」という海の浅瀬でちゃぷちゃぷ素足をくぐらせている小娘として素直な感想を言うと、不思議な舞台だった。

不思議な人たち、不思議な生き方。

わたしにとっては、特に刮目させられたわけでもなく、圧倒的感動を与えられたわけでもなく(つまりははてブに書き残したいと強く思うような舞台だったわけではなく)、ただ不思議な人たち、理解のできない人たちとして、微風のように通りすぎた舞台だったのだけれど、なぜこの人たちは微風だったのだろうかということの確たる理由もなく、わたしにとっては確かに微風だった、ということだけでも書き留めておこうと思って書いている。

 


単純に、怖くないのだろうか、と思った。

人生は選択の連続で、ある程度の年齢を過ぎるとその全ての責任は自分にある。どれだけ努力してもどうにもならないこともある。

一方で、わかりきった「レール」というものもある。このポイントさえ押さえておけば、大成しなくても、歴史に名を残すような派手な花火をぶち上げなくても、まあ向こう10年はなんとか暮らしていけるかもしれない、という、生活を、必ずではないけれど少なからず保証するレール。粗雑に括るならば、進学や、就職。

そこから逃げる、ということは、あくまで一時的な逃避行であって、いずれ大きなツケが回ってくることは誰もがわかっている。わかっているだろう、とわたしは思っていたし、思わないのが不思議だ。例えばそれは、親が死んだ時。貯金が底を突いた時。恋人に見捨てられた時。多くの場合は金銭面において「現実」と向き合う必要ができた時。

不思議だったのは、今作の主人公である裕一と智子が作中を通し最後まで徹底的に責任から逃げていて、それに対して不安や焦燥や後ろめたさ、開き直りすら、一切滲ませなかったこと。「将来への漠然とした不安」を全く感じさせなかったこと。それらを滲ませていれば、わたしにとっては理解し得る人々であり、よくある日常の風景に留まったのだと思う。

 


単純に、怖くないのだろうか。わたしは逃げることが怖くて、逃げることから逃げてきた人生だった。大きくレールから逸脱することに憧れを抱きながらも、結局は安定へと続くレールを粛々と進んできた。卑下なく凡なる自分が明日の食べるご飯を心配しなくても良い最も平穏なる道を選んだ。進学も、就職も、ある程度無計画ではあったが、「大学に行くもの」「就職するもの」という周囲の規定と期待に沿って歩んできた。嫌で嫌で仕方のなかった中高の部活ですら、途中で逃げる勇気は持ち得なかった。それが安全で、安心だったから。わたしの生まれ育った環境の中で最も「普通」と目されるものをずっと選んできた。この「普通」が人によって違うこと、わたしの「普通」も誰かにとっては「特異」であることは承知しているけれど、それでも多くの人がそれぞれの「普通」の中である程度想像可能な未来に向けて歩いている。だからこそ「普通」が成立する。

「清水の舞台から飛び降りる」をわたしはやったことがない。だからそれをやれる人をわたしは尊敬する。不思議なのは、裕一も智子も、「飛び降りる」をしていなかったことだ。「飛び降りる」ことが彼らにとっては「飛び降りる」ことではなかった。そこに決意や諦めや挫折はなかった。逃げることが当たり前で、当然で、大したことではない、といった彼らの態度が、不思議を深めさせた。

 


裕一と智子の間に「愛」はないと思う。あるかないかは重要ではないし、陳腐だ。脇道の議論。あったらもっと湿度のある舞台になっている。もっと見覚えのある舞台になっている。この舞台の奇妙さは題材と比べた時の妙にカラッとした質感にある。

裕一と智子の間にあるのは連帯、と呼ぶほどのものでも彼らにとってはなく、「当たり前」を共有する相手。みんな、なんでそんな逃げないんだろう、なんでそんなこと言うんだろうね、ねー、と顔を見合わせて不思議そうにしている小さな子供のようだなあと思った。子供、とは無垢さの象徴としてそう呼ぶのではなく、自分にとっての真実を何の疑いも躊躇いもなく信じ切れる存在としてそう呼ぶ。わたしが、自分にとっての「当たり前」を信じているのと同じだ。

 


不思議な人たちだった。それ以上でもそれ以下でもない。わたしを害するものでもなく彩りを与えるものでもなく、ただねじれの位置に存在する、無関係の、不思議な、わからない、わかろうと思わない、わかりたいとも思わない、わからなくても打ちひしがれない、嫌悪も興味も何もない、ただ不思議な人たちだった。

 


裏切りの街。

裏切りなのだろうか?あの中の誰が何を裏切りと呼べるくらいの「正しさ」の中で生きているのか、わからない。