みぎのほっぺに冬の夜

Träume sind Schäume.

ザワ0とザワを履修したらザワクロの花岡楓士雄ちゃんの解像度がブチ上がったよ感想

※このブログはザワ0以降のシリーズのみを履修した楓士雄大好き人間が書いているので、一部解釈違い等あるかもしれませんがご容赦ください。長い解釈語りです。

 

タイトル通り。ザワクロで落ちた人間が、楓士雄と司の関係性の解像度を上げるべくザワ0とザワを履修しました。

 

まずザワ0(Huluにある)。ザワで楓士雄が鬼邪高に転校するまでの話。

ザワ0を通して一番よかったのは、司が楓士雄の親友であると自負するのと同様に(参照:ザワクロ)楓士雄にとっても司が「親友」なのだ…!という確信を持てたこと。わたしは楓士雄と司の関係性が死ぬほど好きだが、果たして司にとって楓士雄が唯一なのと同等に、楓士雄にとっても司は唯一だと言えるのか、ザワクロだけでは断言できないところがあった。楓士雄は三校連合に拐われたのが司でなかったとしても同じ行動をするだろうことはザワクロだけを見ても容易に想像ができたし、それが楓士雄の良さだ。「司も助けてほしいなんて思っちゃいねえよ」は親友ポイントが高かったが、やはり司の様々な意味での楓士雄への重さに匹敵する思いがあるとはいまひとつ断言しづらい部分があった。その不安を払拭してくれたのがザワ0の描写だった。

Wikipedia曰くザワ0の主人公は司だが、ザワ0の大半を通し司は水に濡れたアンパンマンのようにしょんぼりしており、楓士雄と二人で屋上に持ち込んだソファに腰掛け、帰らぬ相棒を一人待ち続ける。慕ってくる子がボコボコにされていても楓士雄のことしか考えていない司は、「なんでこんなにつまんねえんだよ…」と宣ったりしている。楓士雄との回想シーンではよく動く表情筋は、現在軸では微動だにしない。この姿を見ると今屋上のソファに楓士雄と二人で座れていることが司にとってどれほど幸福か伝わってくる。よかったね司。

話が逸れた。わたしにとって衝撃だったのは、楓士雄が鬼邪高を離れる回想シーン。「しょうがねえじゃん」と楓士雄は司に言い、「そんな顔するなって!」と続ける。重要なのは司がただ曖昧に微笑み、引き留める言葉などは発していないこと。楓士雄は、司の微笑みだけで彼が言葉には出さない機微を全て解している、解せる男なのだ…!ということが衝撃だった。司が楓士雄の機微を正確に解せるのと同じように、楓士雄も司を解せる関係性が構築されていた。よかった、楓士雄から見ても司は親友だった…!(安堵…)ただ「別に永遠の別れじゃあるまいし」にはやや不安が残ったが。司にとってはそれくらい辛いんだよ!まあ楓士雄なのでこれくらいは仕方ない。

しかしタイマンの主旨にも関わらず終わってから「俺もこっちに引っ越そうかな」などと言う司を見ると一体製作陣は楓士雄のリーダーの器としての道筋を付けたいのか、司からの楓士雄への執着を描きたいのか、欲張りすぎていてよくわからなくなるが、「一番を目指した結果、No.2になった男」の穏やかさを描いているということなのだろうか?まあ司の話を動じることなく笑顔で聞く楓士雄は正真正銘生粋の王だとわかるし性癖的に助かるので不問にする。

そして、楓士雄と司以外で印象的だったのはジャム男。「いつまでそんなこと言ってるんすかあ!もう楓士雄さんはいないんですよ!」や「今の司さん、リストラにあって家族に言えないサラリーマンみたいっすよ 」など、かなり大胆な発言を繰り返すジャム男。ジャム男は思っていたより司に強くて面白かったし、司は司で「お前のおかげで楓士雄と仲良くなれた」という人生で一番の恩を感じている相手なので、そりゃ心を許すよね。楓士雄以外では唯一司を笑顔にできる男ことジャム男。途中イライラした司にひどいことを言われていたが、あの強さでは特に心配する必要はない。そして司の場所をなんとしても守ろうとするジャム男…………お前が優勝だよ…………………… 。ジャム男は、喧嘩は弱いけど鬼邪高の派閥争いにわくわくしている時点でちゃんと絶望団地出身だし、根っからのヤンキー倫理観の元に生まれた子なんだなということが味わえて良い。 

あと孫の楓士雄が信じられないくらいかわいい。わたしもこんな孫がほしいよ。結局大海を目指して楓士雄は鬼邪高に帰ってくるけれど、作中を通して、楓士雄が「田舎で燻っている」「田舎にいることが不満」という認識では全くないことがよかった。だから楓士雄は楓士雄なのだ。

 

続いてザワ(アマプラにある)。

楓士雄が鬼邪高に帰還。あれだけジャム男たちの必死の攻防がザワ0で描写されながら、大将の座を転校一日目であっさり楓士雄に明け渡す司。司一派の気持ちを考えろよォ!と思わなくもないが、中越も躊躇なく楓士雄に降る(降るという言い方が適しているかわからないが)し中岡や他の一派の面々も表立った不満や困惑はなさそうだったのを見るに、ヤンキー倫理観的には割と一般的な行為なのだろうか。

ザワでは楓士雄と司には目立った動きはない(というか司は現状に満足しているので終始ハッピーだし、楓士雄は幼馴染たちに忙しい)が、楓士雄が鬼邪高の台風の目となっていく様子が描かれていてザワクロから見た人間として感慨深い。ザワ0で明確に言語化されていた「ボスorリーダー」が映像を通して示されていて、楓士雄(あるいは他の誰か)が鬼邪高で頭を取るための至上命題であることが伝わってくる。

ザワ0とザワを見ていて面白いなと思うのは、あんな狂った世界観の中でもちゃんと大人と子供の区別があること、子供は大人に守られるべき存在であるという理解があること、それを子供側もわかっていること。その屋台骨がしっかりしているのが不思議だったけれど、この世界の中でも重要な倫理観なんだろう。

同様に、ザワクロにも通じることとして、自分が喧嘩が弱いと端からわかっているのに形だけでも喧嘩の場所に出向いてちゃんと参加するジャム男はすごいなと思う。それがたぶん彼なりの誠意の見せ方、あの世界の誠意の見せ方なんだろう。

ザワの良さとザワクロの良さはまた全然異なっており、恐らく作品のわかりやすさとして新規が入りやすいのはザワクロだろうなと思うと同時に、わたしはザワから見ても絶対に楓士雄に落ちていただろうなと思えるいい映画だった。

 

そして、二作を履修した上でのザワクロ。すでに5回目だったので、今更感想が大きく変わることもそうそうないだろうと思っていたのに、全然違った。楓士雄と司の関係性の解像度を上げようと思っていたら、楓士雄の解像度がブチ上がるザワクロだった。

今までわたしは屋上で佐智雄からの手紙を読んだ後に楓士雄がジャム男に対して言う「強い男っていうのは、そんなことじゃねえのかもな」というシーンの持つ意味をいまいち理解できていなかったのだけど、ここがザワクロの楓士雄側の物語の主題だったように思う。ザワクロは、今まで漠然と「てっぺん≒天下一武道会優勝」というようなイメージを持って頭を目指しながら、己の喧嘩の強さ+自覚のない生来のカリスマ性によって自分の意志以上に周囲からの支持という外的要因によって鬼邪高の頭になった楓士雄が、リーダーとは何か、自分は鬼邪高にとってどういうリーダーになり得るか、なぜみんなは自分をリーダーとして認めてくれているか、という自分のリーダーとしての資質に逆説的に気がつき、遂に自覚的に鬼邪高を導こうとするようになるまでの物語だった。

今まで痛快な大乱闘スマッシュブラザーズ+すあまの物語として受け止めていたザワクロの、楓士雄側の物語。揺らぐすあまの対比としてブレない軸だった楓士雄側の物語は初見では気づくことが難しかったが、過去作を踏まえると楓士雄の葛藤と成長を含めそれぞれの物語が明確な対比の意図を持って描写されているとわかる。

自覚なく、鳳仙と喧嘩した頃のような状態とは打って変わって「鬼邪高」なりの一枚岩となった鬼邪高を作り上げた楓士雄が、三校連合という外圧によって自分が佐智雄や村山のような存在にならなければならないことに気がつく。自分がなぜ鬼邪高の頭になったのか自覚がないからこそ、自分とは違う存在として佐智雄や司の名前を挙げ、「俺じゃなかったのかもな」と迷う。一方で楓士雄だからこそ頭と認めた鬼邪高の面々は楓士雄がなぜ迷うのかわからず戸惑う。迷った上で、今は司もいない、佐智雄だっていない(そもそも鳳仙)、鬼邪高の頭は俺だ、なら頭として俺に何ができる、と考えた上での「仲間のためならいくらでも頭下げられる」が楓士雄が導き出した彼なりの答えなのではないだろうか。

(ということはやっぱり、司の不在が楓士雄のブーストの上で必要不可欠だったのか…?拐われたのが司じゃなくても〜なんて書いたが、楓士雄が自己認識を変えるためには「司」が拐われることに意味があったのかもしれない。よかった…よくないけど…。すあまとの対比の上では司である必要は元からあると思います。)

簡単に言えば「鬼邪高は自分が右向きゃあ右向く」と楓士雄が自覚した上で、じゃあどういう風に右を向くか、という判断ができるようになる、その判断を自分でする覚悟がつくまでの物語だと思いました。

ここで面白いのが轟の存在で、「うちの頭に影響されまくりだな」等のセリフからもわかるように轟は楓士雄を鬼邪高の頭として認めている一方で、鳳仙でのビンゾーの紹介を受けて「お宅にも似たようなやつがいんだろ」と小田島に言われ(この似たようなやつ、は文脈的に轟を指していると思われる)ハテナの表情を浮かべている楓士雄は轟のことを「自分が右向きゃあ右向く」存在だと認識していない。だからこそ屋上での「俺はもう必要ねえってことか?」と「ちげえよ」「仲間のためならいくらでも頭下げられるってことだよ」のシーンの絶妙なすれ違い感が生まれているのだと思う。そもそも自分を鬼邪高の一員として見ているからこそ自分が楓士雄に頭を下げられている意味がわからない轟と、あくまで鳳仙や鈴蘭のように頼んだら応えてくれるかもしれない関係値のある外の存在(=頭を下げる相手)として轟を見ている楓士雄のすれ違い。もどかしいね。今作では明示されていないものの轟が楓士雄より強い事実は覆っていないと思うので楓士雄の認識も理解できるが、なぜ轟が楓士雄を頭として認めたのか含め、この二人の絶妙な認識のずれの行く末が今後の作品で描かれるならアツいなと思う。

しかしまあ過去作を履修すると、ザワクロで鬼邪高の面々が当然のように自分の意志で屋上に集まっているのがもうかわいいし、その中に轟一派も違和感なく混ざっているというのも感慨深いしいとしい。みんなで焼きそば食べたりなんかしちゃって〜もう〜。泣き泣き。高校生かわいいね。司が二年間ひたすらしょんぼりしながら楓士雄を待ち続けた場所を、いま皆が思い思い集まる場所へと変えた楓士雄。司ももうこれ以上言うことなし。何より初見でも胸熱だった須嵜とのタイマンシーンで再び起き上がった楓士雄を誇らしげに見つめる鬼邪高の人々の表情の良さが、彼らがなぜ楓士雄を頭に選んだかを全て説明するに足るものだった。

司に関しては本当、楓士雄がいない日々に比べたら、そりゃもう毎日が最高に楽しい。拐われるのだって全然へっちゃら、ちゃんと一緒にぶっ殺しに来てくれる楓士雄がいるし、満身創痍でも自分で天下井の指をへし折る胆力だってあるので。殴られても蹴られてもロープで縛られて二階から落とされても泣き言一つ叫び声一つ上げなかった司が劇中で叫んだのは楓士雄が刺されそうになる瞬間だけ。司は元気です。頭を自覚した楓士雄の変化は、司にとっては願ってもないことだと思うので(そもそも楓士雄のリーダーとしての器を一番信じているのは司なので)、残り少ない高校生活は司にとって人生で最も幸福な日々でしょう。

あと司の方が断然見えやすいけれど、ザワ0、ザワに引き続きザワクロでも司とお揃いのネックレスをちゃんとしている楓士雄も良い。幼馴染たちとの木札のネックレスと同列に司とのネックレスをし続けていることで、救われる命があります。司も救われます。(木札の紐は更に見えづらく、焼きそばのシーンとラストのすあま整理券のシーンで微かに視認できる。)

ということで、楓士雄の解像度がブチ上がった、良質な履修体験でした。

(余談だけど、ザワクロ内で好きなセリフは数あれど、セリフがないからこそ痺れるほど好きなのが落下する司を受け止めた後の楓士雄。あの流れ、落ちてきた司に「大丈夫か」くらいあってもいいはずのものを、楓士雄は無言で二階を目指そうとする。ただの善ではない楓士雄の静かなる怒りと司への執着を感じられる貴重な瞬間。)

 

インターネットの海を泳いでいると6ザワはなんだか見た方がいいのか見ない方がいいのか判断がつきかねるが、自分の知らない楓士雄と司が存在することは耐えられないので、気が向いたら見たいと思います。