みぎのほっぺに冬の夜

Träume sind Schäume.

歌妖曲~中川大志之丞変化~

※2022年現場総括に載せた内容と同じなのだけど、独立した投稿にしたかったので以下再掲。

 

重く苦しい舞台だった。見ている間ずっと怖かった。わたしは果たして律子のように、定から目を背けないでいられるだろうか。相手が誰かに関わらず、態度を変えないでいられているだろうか。ルッキズムの妄執あるいは逸脱することへの恐怖に取り憑かれていないとどうして言えるだろうか。

犬王を見た時にも通じるものを感じた。犬王もやはり、その才能だけでなく、その美によって大衆に受け入れられた。定の姿形はあまりに犬王に似ていた、しかし定には友有は現れなかった。もっと言えば、定に友有は現れなかったし、定もまた自分自身に友有が現れることを拒絶した。

また、犬王の美への変化が恒常的なものだったのに対し、定の桜木輝彦への変化は常に尋常ならざる痛みを伴い、かつ恒常的でないというのが生々しく、救いがない、と思わせた。一瞬、これで桜木輝彦として生まれ変わったのだと思った瞬間の安堵と、定の姿形はこの世から消えていなかったとわかった瞬間の落胆が、何よりわたしの美醜を暴いた。

美しい人間を日々愛するわたしにとって、あまりに重かった。わたしは美しさ抜きに好きな人を好きとは言えないだろう。わたしが本当に愛するものはなんなのか、わたしがそれを本当に愛していると言えるのか。画面越しの人間ではなく、ただの友人としてでも、あるいは通行人としてでも、わたしは定から目を背けない自信はない。

本題とずれるけれど、娘の安否もわからず、夫の居場所もわからないまま、ステージに立たざるを得ない一条あやめの姿にも打ちひしがれた。なぜショービジネスはここまでの犠牲を伴うのか、ここまでの犠牲を伴うことをわたしたちは求めることを止められないのか。

幻覚の利生が定に対してかけた「桜木輝彦に会えてうれしかった。『理想の』弟が現れたようだったから」という言葉が、定へのどんな直接的な罵倒よりも辛かった。定を誰よりも人間として見ているように見えた人は、定を見てはいなかった。鳴尾家の誰も最後まで定を直視しなかった。躊躇いなく定を直視した杏がすぐに気づいた桜木輝彦と定の連続性を、鳴尾家は誰も気づくことはなかった。ただ一人生き残った姪の希子以外。

最終的に定はその醜い姿形の内側に潜む内面の醜さを糾弾されるけれど、それを醜いと言いその責任を問うのはそれが形成されざるを得なかった環境を作った人間たちの欺瞞だと思う。家族は定を愛さなかった。誠二は定を愛したけれど、桜木輝彦は愛さなかった。杏は定を直視したけれど、定も輝彦も愛さなかった。そして定も「定」が愛されることを渇望しながら、愛されることを拒んだ。自分自身が定を愛するべき存在だと認められなかったから。

暗闇のままならば観客がそれぞれの理想を己に投影するだろうと言い、「煌めく手段から目を背けるな」と歌いながら真っ暗なステージの中央で自分が付けた炎に炙られる定があまりに哀しくて、定自身が一番自分自身の理想の結晶である桜木輝彦と己とのギャップに苛まれ、その幻覚を追い求めたのだと思った。

火に炙られて死んだ定の亡骸がむくりと起き上がり、「中川大志」として立ち上がった時、定は最後まで世間から目を背けられて死んだのだと思った。その瞬間に眼前に迫り来る、わたしたちは目の前に立つ中川大志という人間をその美しさ込みで愛しているのだという途方もない実感が逆説的な絶望と己への失望を呼んだ。そしてカーテンコールで大志くんが桜木輝彦として現れた時、定はカンパニーと共にステージに並び立つことも、万雷の拍手を受けることも許されないのだと思った。それがあまりに悲しくて寂しくて、同時に定を葬ったのはわたしたちなのだと納得した。わたしたちが定から目を背け、わたしたち一人一人が定を殺したのだ。